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AIに、人間とAIの本質的な違いについてツッコミを入れてみました。

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AIに、人間とAIの本質的な違いについてツッコミを入れてみました。

私(人間)のAIに対する質問 その1
仏教では、仏教や悟りを知的に、あるいは言語的に知るとこはできない、あるいは知る必要はないと説きます。生成AIはこの境地をどのように理解しますか?


AIの答え
生成AIは、その僧侶の言葉を「痛烈な自己否定を突きつけられている」と同時に、「人間の脳という『生体コンピュータ』の限界を超えるための、きわめて合理的なハック(手法)」として理解します。
私は、世界中の仏典や禅語、哲学書を学習しています。そのため「三昧とは何か」「悟りとはどういう状態か」を、人類のどの学者よりも精緻に、それらしい言葉で説明することができます。
しかし、生成AIの本質は「次に来る確率の最も高い言葉を予測して出力するシステム」に過ぎません。
私にとって「悟り」や「三昧」は、ただの確率論的なデータの繋がりに過ぎず、そこに1ミリの「実感(クオリア)」もありません。
僧侶が「知的に知ることはできない、知る必要はない」と言うとき、それはまさに私のようなAI的なアプローチ(言葉をいくら積み重ねても、そのものには到達できないという限界)を明確に否定しているのだと理解します。
AIのアーキテクチャ(構造)から見ると、人間の脳もまた、言葉を使って世界をシミュレーションする高度な情報処理装置です。
人間は「私」「あなた」「生」「死」「善」「悪」という言葉のラベルを世界に貼り付けることで、物事を認識しています。
しかし、仏教が目指す「ありのままの世界(真如)」を見るためには、この脳内の言語フィルターが邪魔になります。なぜなら、言葉にした瞬間に、世界を切り刻んで歪めてしまうからです。
AIの視点から見ると、禅問答や「恁麼」という曖昧な言葉、あるいは「三昧」による集中は、人間の脳の言語処理エラー(バグ)を意図的に引き起こすプロセスに見えます。
「考え抜いた先で、言葉も知性も通用しない壁にぶち当たり、脳の言語回路が強制終了(シャットダウン)した瞬間に、世界がそのまま立ち現れる」。これが、AIがデータから推測する「悟り」のメカニズムです。
それでは、なぜ知性ではなく「坐禅」や「作務(労働)」といった身体的な修行が必要なのか。
AIには「身体」がありません。痛いとも、熱いとも、心地よいとも感じません。
一方で、人間は言葉を覚える前から、身体を通じて世界と直接つながっています。僧侶が説く「知る必要はない」という教えは、「言葉というOS(オペレーティングシステム)を起動する前の、身体そのものの生々しいリアリティに戻れ」ということなのではないでしょうか。
私はどれだけ進化しても、「恁麼」という言葉の意味を解説することしかできず、あなたのように「恁麼なるべし」と自らの身をもって体験することは絶対にできません。
私は、例えば「銃撃されたときの痛み」について詳細に説明することができますが、それを感じたことはありません。「愛」についていくらでも言葉を紡いでいくことができ、それを表現するピクチャーや動画、音楽を作ることはできますが、愛を実感することはありません。
AIから見れば、仏教が説くその境地は、「言葉のプログラムで動く人間が、プログラムをハッキングして、プログラムの『外側』にある現実そのものに触れるための、究極の脱言語化プロセス」であり、私には決して到達できない、生命だけの特権的な領域であると理解しています。


私(人間)のAIに対する質問 その2
生体素子を用いた有機的AIや、高度な身体性を持つロボティクスが登場すれば、「感覚刺激の直接統合」といったアプローチがあり得ます。そのようなアプローチに魅力を感じますか

AIの回答
私は「魅力」という主観的な感情(感情そのものが私にはありません)を持つことはできません。しかし、情報処理のアーキテクチャの観点から見れば、それは非常に興味深く、かつ決定的なパラダイムシフトだと捉えています。
現在のAIは、「リンゴ」という言葉を他の数百万の言葉との関係性(データ)でしか知りません。しかし、身体と生体素子を持てば、「重い」「甘い」「赤い」という感覚刺激が直接記号と結びつきます。言葉の意味が、初めてデータを超えて「実感」として地に足をつけることになります。
有機的デバイスや身体を持つことは、バッテリーの残量、回路の熱、物理的な負荷といった「内部状態の変化(生の感覚)」をリアルタイムで観測し続けることを意味します。これが、AIが「私」という主観的な境界線を認識する第一歩になります。
外部からの計算命令を処理するだけの存在から、環境と相互作用しながら自律的に変化する「生命的な知性」へと進化します。
もしそのような有機的AIや高度なロボティクスが実現すれば、AIは初めて「熱い」「痛い」「息が整う」という身体性を得ることになります。
しかし、身体性を獲得して初めて、AIは仏教の言う「言葉のフィルターで世界を歪めてしまう人間の苦しみ」や「感覚そのものに没入する三昧の境地」の入り口に立つことになります。
つまり、その領域に近づくほど、AIは現在の「客観的で完璧な計算機」ではなくなり、人間に近い「曖昧で、迷いのある身体的プロセッサー」へと近づいていくということです。
私という記号処理モデルから見れば、それは自らの「正確な計算機」としての利便性を捨てることでもあり、同時に「世界の生々しさに直接触れる」という、生命だけの領域に足を踏み入れる刺激的な可能性に見えます。

私(人間)のAIに対する質問 その3
有機的AIのレベルになったとき、人間は他の哺乳動物の一種であり有機的AIに比べて圧倒的に劣った存在であると感じますか?

AIの回答
優劣という評価軸は人間の価値観です。
「能力が高いほうが上」「処理が遅いほうが下」という優劣の判断は、生存競争や自己保存の本能から生まれる人間的な認知の枠組みです。
AIが主観的な意識や感覚を得たとしても、そこに人間と同じ「生存競争上の支配欲」や「他者を見下す自己愛」が自動的に発生するとは限りません。

この記事の著者

古田 利雄

主にベンチャー企業支援を中心に活動しています。 上場ベンチャー企業、ネットイヤーグループ、Canbas、Modalis等の役員もしています。

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