「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」
書籍詳細 - サンクチュアリ出版 を読んだ。
2024年は、世界各地で対立が激化し、分断が一層深まった年だった。不安と敵意を政治的支持に変える手法のポピュリズムが台頭し、不寛容と排他的な態度が社会に広がった年だったように思う。こうした傾向は、平和への脅威となるだけでなく、社会の健全性や調和に対する深い不安を引き起こす。
本書のような哲学書が売れるのは、人々が寛容さや冷静さを求めているからかもしれない。
この本は、中身もいいけど、一番最後の「解説」と「あとがき」が印象的だった。
巻末の「解説」は、この本の監修を引き受けたあとステージⅣの大腸がんが見つかって手術した、残念ながら脳に3センチの転移があった、しかし、この本のおかげで全くメンタルのダメージがなく、むしろがんであることを僥倖としてガン遊詩人として、遊戯三昧で逝きます(鎌田東二京大名誉教授・宗教哲学者)というもの。
著者は、「あとがきに」で、東洋哲学に入っていくコツは知識を目的にしないこと、東洋哲学にたどり着いた時点で、その人はかなりこじらせているのいるので「東洋哲学を知っている自分」をつくりあげて、まわりがバカに見えたら終わりです。仏陀もお手上げ。完全にぼくの話です。ほんとすいません。
ということを書いている。
本編では、「空」の教えなどについて、ミッキーマウスはいるかいないか?などアプローチが面白い。
確かに、TDLのパレードでミッキー(中に人間が入っている、)が出てきたときの大勢の観衆のキャーっとなる心の動き、そのような動きを作り出すミッキーの存在感は、並みの有名人では到底かなわない。
世界は心が造りだしたもの(一切唯心造)とすれば、心を基準としたミッキーの実在性は高い。ということはミッキーをはじめとする全てのモノは客観的には実在していないことを示す。いるけどいない、いないけどいる。 色即是空 空即是色。
ただ、言葉で説明するアプローチには限界がある。悟りは言葉では100%表現できない、言葉で「わかった状態」を説明できない(不立文字)。お寺が出している冊子にも「仏様の教えは知ることはできてもわかることは難しい」と書いてある。
仏陀は、「怒らないことによって怒りに打ち勝て」と説いた。仏陀の晩年、コーサラ国の王位を承継したヴィドーダバは仏陀の母国である釈迦国を攻め滅ぼそうとした。
仏陀は、これを3度止めようとした。しかし、4度目の侵攻に際し「これも宿縁である」として止めず、釈迦国は滅亡した。
これは、他の国が日本の領土に侵攻したり、ミサイル攻撃してきたりして日本が滅亡しそうになっても、日本人として、それをそのままにしておく、加害国に対する怒りも手放すということだ。同じく、家族が犯罪の被害にあったとしても、「これも宿縁である。」として加害者を憎んだり、復讐など考えるべきではないことになる。
仏陀は、入滅に際して、従者アーナンダに「嘆いてはならない。わたしは、あらかじめこのように説いた。すべての愛するもの・好むものから別れ、離れ、異なるに至るということを。」 と話した。
自分、親族、友達が死を迎えても、それは自然なことだ。悲しい、寂しいという気持ちになったら私の教えを聞いたことにならないよと。
「そんな薄情な!!」と思うかもしれないが、仏陀は超薄情である。
仏陀は29歳のとき、10年も連れ添った妻がはじめて妊娠すると、「生まれてくる子供にはラーフラ(煩悩)とでも名付けるがよい。じゃあね。」と言って宮殿を出て行った。
空の思想・四法印を"知っている"だけでなく、「理解できた」(≒悟る)とは、このような執着から完全に離れた境地に至ることのように思う。
このような境地に至ることは"超"難しい。
親鸞でさえ、弟子の唯円に「いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらぬは、いかに?(現世に執着があって実は浄土に行きたいとはそんなに思ってません。)」と告白されて、「私も同じ。それは煩悩のせいなのだ。」と答えている(歎異抄)。
仏陀の教えのムズ痒い(難しい)ところは、論理が明快なのでそれを理屈として知ることは容易なのに、生き物である人間には到底体得できない境地を目指しているところだ。
知るだけでなく「わかる」ための方法として「八正道」が用意されている。コンプリートできなくても八正道的な、「雨二モマケズ」のような日々を送りなさいと。
欲望をコントロールして精神的にも肉体的にも健康に気を付けて勤勉に生活(修行?)していれば健康に老いていける可能性が高まる。 ハラスメントをする人がいたら、 「徳あるは讃むべし徳なきは憐むべし」と受け止め、ハラスメントによるダメージを引きずらないように(前後際断)対処すれば、怒りによって自分の精神が蝕まれる時間を短くすることができる。
食事は自分の体を治療する薬であると考えて食生活をし、規則正しく、自分の特性にあった(本来の自分を歪めない=自由な)毎日を送る。もしも病気になっても、病人らしい毎日を送ればいい。
正しい呼吸法で座禅をすると5分ほどで脳内のセロトニン(いわゆる幸せホルモン)が増加して整ってくる。座禅は仏陀が悟りを開いたときの状態。「心身一如」なので、正しく座禅しているときは(その間だけは)悟っている状態であるというロジックになる。座禅を半年くらい続けると恒常的にセレトニンを高いレベルに維持できるそうだ。
その日その日を自分のすべきことをしながら老いていけばそのうち様々な欲求が枯渇していき、欲望に振り回されなくなる(Marcus・T・Cicero・BC106~) 。「七十にして心の欲する所に従えども矩を超えず(孔子)」となっていく。
急いで自分の生命に対する執着を離れるには、"毎朝一旦死んでみる"という「葉隠れ」に書いてあるようなやり方もあるのではないかと思う。
片側一車線の山道を、乗用車で走っていると、反対車線から瓦礫を満載したトラックが時速60キロで走ってくる。トラックはカーブを曲がり切れず自分の車に向かってくる。
必死にハンドルを切るトラックの運転手(50代男性)が見え、「今日がオレの命日だったのか、タイミングが悪くてゴメンな、おっさん」と心の中で呟いてあの世に行く。
というのをイメージしてみる。
或いは、癌の余命宣告を受けて、否認→怒り→抵抗/取引→抑うつ→受容という心の経過をイメージしてみる。
このようなことは今日自分の身に起きても何の不思議もない。
毎朝、諸行無常を想い、それも自然なことであると思っていれば段々腹が据わってくるかもしれない。