今年も、約100名の顧問先や業務上お世話になっている皆さんに集まっていただきました。
講演:戦争体験 17:30~
スピーカー: 弁護士 久木野利光 昭和6年2月生
昭和20年3月(14歳) 鹿児島商船学校入学 同8月に終戦を迎える
昭和23年4月から日本丸に乗船し、台北、中国のタークーなどに残っていた日本人の引き上げを行う。
講演の要領
第2次世界大戦では、日本軍は資源不足から現地調達主義をとっていたため、占領先の国々には迷惑をかけたが、日本の戦いによって、アジアの国々は独立への道を開いていったという面もある。
終戦後日本を占領したGHQは、日本人に対して東京裁判史観を植え付けることによって、罪悪感を植え付け、自信を喪失するように教育した。日本は、その後東西冷戦構造、朝鮮戦争などの特需によって奇跡的に経済を回復した。これによって日本人はある程度自信を取り戻したが、経済的な復興に依存した自信は、日本経済の凋落によって再び喪失することになった。しかし、経済的な状況によって自信が左右されるのは情けない話しだ。
太平洋戦争(対米戦)はなぜ起きたか、また東京裁判について、知らない人も多い。
もとより戦争はあってはならないが、誤った歴史認識に基づく自虐的な態度を捨て、日本人の持つ誠実さや勤勉という美徳を再認識して、これらからのグローバル競争社会において堂々と活躍して欲しい。
・ 太平洋戦争に至った経過
帝国主義(侵略戦争)の時代
1840年 アヘン戦争で負けた中国は英国に香港を割譲する。
1853年 ペリーが4雙の軍艦を率いて、日本に対して国交通商を求める。
明治維新
1884年 米国 ハワイ真珠湾を海軍基地として利用する契約をハワイと結ぶ
1895年 日本 日清戦争に勝利
1898年 米西戦争: Spanish-American War 米国勝利
カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得
1900年 米国ハワイを併合
1905年 日本 日露戦争に勝利
米国で「黄禍論」(黄色人種の台頭への危機意識)が高まる。
1917年 ロシア革命 ソ連の南下政策が強化される。
1919年 オレンジ計画(対日戦争計画)を非公式に立案、1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用された。同計画では『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿った。
1931年 満州事変が勃発 日本は国際連盟から脱退
1940年9月 日独伊三国軍事同盟締結
この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、石油輸出全面禁止等を始めとする厳しい経済制裁を行う。
1941年 ABCD包囲網 対日封
東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたもの。
1941年11月26日 ハル・ノート(Hull note)
日米交渉において日本側が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案。「機密戦争日誌」には野村大使の報告に先駆けて打電された在米武官からの要旨報告電報が次のように記されている。「果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く1四原則の無条件承認 2支那及仏印よりの全面撤兵 3国民政府(汪兆銘政権)の否認 4三国同盟の空文化」「米の回答全く高圧的なり。而して意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり。」
もともとルーズベルトは日本との戦争を望んでおり、日本がハル・ノートを受諾するとは考えていなかった。
http://gekkan-nippon.com/?p=2969
1941年12月8日 真珠湾攻撃
(東京裁判)
極東国際軍事裁判所
1946年5月3日〜1948年11月12日
罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて「平和に対する罪」(A級犯罪)でも起訴された。
東京裁判は、以下から違法・無効なものとされている。
- 本裁判はGHQのダグラス・マッカーサー司令官が布告する条例によって行われ、国際法に基づいていない。
- 事後的に立法された「人道に対する罪」「平和に対する罪」によって裁かれている(遡及処罰の禁止・裁判所を構成したパール判事は、事後法で裁くことはできないとし全員無罪とした。)
- 裁判官が戦勝国の影響を受けもので占められており偏波であった。
- 被告人の選定も偏波であった。
- 伝聞排除などの証拠法則が守られていなかった。また、証人となった満州帝国皇帝の溥儀は、ソ連の意を受けて自らの身を守るために偽証を行い、関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたことを後に自らの著作で明らかにしている。
- ダグラス・マッカーサーは、日本の戦争の理由を 「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」と証言した。1951年5月3日~5日米上院軍事・外交合同委員会聴聞会
GHQによる戦争犯罪の喧伝
GHQは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを策定し、7年間に亘り、日本の戦争犯罪について喧伝するとともに、徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策、東京裁判に対する批判を封じた。
例えば、1945年(昭和20年)12月8日から、連合国司令部記述として全国の新聞紙上に連載された宣伝記事「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させ、ラジオ放送による「眞相はかうだ」や眞相箱などを放送した。
パーティ 18:30~20:30
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