第3回 パブリシティ権の主体

パブリシティ権

1 基本原則

 今回は、いったい誰がパブリシティ権を主張することができるのかについて説明していこうと思います。
 
肖像等は、個人の人格の象徴でありますから、本判決のいうパブリシティ権はあくまで自然人に帰属するのものです。したがって、パブリシティ権は、肖像等に顧客吸引力を有する自然人に認められます。では、パブリシティ権の主体に例外はないのでしょうか。本判決では、パブリシティ権の主体について特に言及がないため、例外が認められる余地がないか具体的例をあげて検討していきたいと思います。

2 具体的考察

(1)芸能プロダクション固有の権利

 パブリシティ権の主体の代表格はやはり有名人等でしょう。しかし、彼らが皆自然と顧客吸引力を有するに至ったわけではありません。彼らの多くが顧客吸引力を有するまでには、彼らが所属する芸能プロダクションのプロデュースやバックアップ等といった支援を欠かすことができなかったでしょう。そして、1人の芸能人を顧客吸引力を有するまで育て上げるまでに芸能プロダクションの費やす時間と費用は、並大抵なものではないはずです。

 そのように考えると、有名人等の有する顧客吸引力は、芸能プロダクションが生み出したともいえ、財産的価値を保護するパブリシティ権の性質からすれば、生みの親である芸能プロダクションに固有のパブリシティ権を認めてもよいのではとも思えます。

 もちろん前述の基本原則を簡単に崩せるわけではありませんから、肖像といった個人の人格の象徴そのものについては、いくら芸能プロダクションが尽力したとしても、それらに由来するパブリシティ権は個人に帰属させるべきでしょう。また、パブリシティ権は努力しないと創出できないもの、というわけではないことから、芸能プロダクションのパブリシティ権創出への努力そのものは、パブリシティ権の主体を判断するうえでの要素としては乏しいものといえます(いわゆる額の汗論)。

 しかしながら、個人の人格の象徴からは遠い位置であるが切り離すことまではいかない、例えば芸能プロダクションやテレビ制作会社が生み出した芸能人の「イメージ」の場合を考えるとどうでしょうか。「石原さとみ」、「綾瀬はるか」、「菅田将暉」・・・。彼らの芸名は(おそらく)芸能プロダクションが付けた名前であり、彼らの芸名を使った商品(タオル等)を売り出せば、使わない商品に比べて当然売れます。そうなると、芸名は、名前である以上人格の象徴の一つといえるし、顧客吸引力も有します。

 他の例でいえば、「寅さん」、「古畑任三郎」、「杉下右京」・・・。このようなキャラクターにも当然ファンもいるわけです。仮に「古畑任三郎」の文字と、人物を表すシルエット付のタオルを売り出せば他のタオルに比べて売れます。そうなるとやはり「古畑任三郎」というイメージには顧客吸引力があるということになります。では、彼らのもつ芸名や「古畑任三郎」というイメージについてのパブリシティ権は誰に帰属するのでしょうか。芸名から想起される芸能人自身か、それとも芸名を生み出した芸能プロダクションか。「古畑任三郎」というキャラクターを作ったテレビ会社か、それともたまたまの縁で「古畑任三郎」を演じることになった俳優の田村正和さんか・・・。

 裁判例があるわけでなく断定はできませんし、完全な私見ですが、このような場合に限っては自然人以外にパブリシティ権を認める余地はあるのではないかと考えます。

(2)グループにおけるパブリシティ権の主体

 次にグループのパブリシティ権の主体について考えてみましょう。本判決ではあくまでピンク・レディーというデュオのなかの「個人」について判示しており、「団体」についてはなんら言及はされていません。

 しかしながら、グループも個人の集まりであるから、結局のところ「○○グループの誰々」といったように個人単位で主体を考えれば足りるように思います。すなわち基本原則通りの考え方でいいと思います。むしろ、団体にパブリシティ権の主体を認めてしまうと、いざ権利を主張するときにグループ内で意見が対立したり、考えが異なったりした場合、ややこしいことになるし、団体にパブリシティ権の主体を例外的に認める必要性が乏しいのではないかと考えます。

 ここで、主体の話とはややずれてしまいますが、「団体」と「個人」の関係での一つ問題となりそうなことがあります。それは同じ人格であるのに顧客吸引力に強弱がついてしまうことです。つまり、「○○グループのA」としての顧客吸引力と、「A」としての顧客吸引力が異なる、もしくは、「A」としてでは顧客吸引力を失うといった場合があるということです。

 例を挙げてみましょう。まずはアイドルグループの「嵐」。「嵐」の場合はグループの顧客吸引力はもちろんのこと、メンバー個人がもつ顧客吸引力も決して劣ることはないから特段問題はなさそうです。

 では次に、「AKBグループ」やいわゆる「坂系グループ」。彼女たちの中には、個人としてもグループと同等の顧客吸引力を有する方もいれば、そこまでには至らない方もいます。後者の場合、肖像等の使われ方によってはパブリシティ権を主張できない場合も起こりうるかもしれません。

 最後に、今年カーリングブームを起こした平昌五輪カーリング日本代表といった類のグループ。彼らはグループでこそ顧客吸引力を有しますが、個人単位では一アスリートであり、顧客吸引力を有するとまでは言えないかと思います。少なくとも現段階では、彼ら彼女らが、団体でユニフォームを着てカーリングをしているCMは見受けられるが、それらを取っ払って個人に着目したものはありません。

 このように考えると、団体の一員である時の個人と、単なる個人とで顧客吸引力に大きな差が生まれる場合、個人そのものになんら変わりがないのに、パブリシティ権が認められる場合と認められない場合が生じる可能性があることに違和感はないでしょうか。私はこのような場合が生じたとき、初めて「団体」にパブリシティ権の主体性を認める意義が出てくるように思います。すなわち、個人では顧客吸引力がない以上、顧客吸引力は全面的に団体の存在に依存しているわけだから、団体にパブリシティ権の主体を認めて団体として初めて権利行使ができるという考えです。しかし、一方でパブリシティ権が認められるか否かはパブリシティ権の主体決定を左右しないとの考え方もできます。つまり、パブリシティ権が認められるか否かは、パブリシティ権の帰属する主体が決定されて初めて、裁判所が判断するのであるから、パブリシティ権の肯否を判断する上で前提条件である主体が、パブリシティ権が認められるか否によって変化しうるのは論理的におかしいという考えです。

 パブリシティ権の主体について判示した裁判例があるわけでなく、上記の考え方も全くの私見でありますが、私は後者の立場をとりたいと思います。すなわち、団体に属していても、パブリシティ権はあくまで個人に帰属し(パブリシティ権の主体は個人)、団体であるがゆえに顧客吸引力が生じるようなら、「団体」という事項を、その個人にパブリシティ権を認める一つの判断要素とすれば足りるというわけです。

 難しいことを書いてしまいましたが、要するに、グループにおいてもパブリシティ権の主体は基本原則通り自然人であるという結論です

3 次回にむけて

 今回は、パブリシティ権の主体について具体的事例を交えながら説明しました。さて、本稿では前回までに、パブリシティ権は肖像等に認められると説明してきました。ではいったどこまでが肖像「等」に含まれるのでしょうか。次回はパブリシティ権の客体について説明していこうと思います。

Category:パブリシティ権

著者
高橋愛衣>
高橋愛衣

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